こんにちは。
合気道三級のばーやん(@yurumaji_aikido)です。
ほとんどの道場には、あるご老人の写真が飾られていると思います。
稽古の始まりと終わりのときにその写真に向かって礼をするわけですが、その光景を見て驚いた人も多かったんじゃないでしょうか。
僕もそうでした(^^;
「なんか宗教っぽい……」と、ちょっと身構えてしまう人も居るかも知れませんね。
まぁ確かに初めてあの光景を見ると、若干異様な感じに見えるのは無理もないような気がしますが……。
あの写真の人物はいったい誰なんでしょうか?
そして、合気道は宗教なんでしょうか?(笑)
一つずつ紐解いていきましょう。
合気道は宗教……ではありません!
まず、あらぬ誤解を解いておきたいと思います。
合気道は宗教ではありません!
大丈夫です。
怪しげなお経を読まされたり、お布施を巻き上げられたり、何に使うか分からない壺を買わされたりすることはありません(笑)。
もちろん月謝(会費)はお支払いしますけどね。
それでもだいたい数千円、高くてもせいぜい一万円程度です。
あの写真に対して手を合わせたり礼をしたりしているのは、偉大な先人に対して尊敬と感謝の気持ちを表すため。
「合気道」という素晴らしい武道を作り上げたこと、そしてその武道の稽古を通じて自分たちが様々なことを学べることへの尊敬と感謝の気持ちです。
とはいえ、初めのうちはそこまで気持ちが入っていなくても構いません。
とりあえず周りに合わせて、形だけ真似ておいてもらえればそれで良いと思います。
合気道の稽古を重ねていけば、自然とそのすごさが分かってくるはずですから。
「これを作った人、すごいなぁ」と思えるようになったら、礼をするときの気持ちも変わってくると思いますよ。
ただ、合気道は武道ですから、その根底には広い意味での宗教的な思想が含まれていることは否定できません。
ですが、少なくとも初段になる前の状態で、その域にまで達することはまず不可能です。
まして初心者のうちからそんな思想に関することは到底理解できませんから(もちろん僕もまだまだ)、一通りの技を身に付けるまでは表面的な(目に見える)部分だけの稽古しかできないはずです。
逆に、何の技もできていないのに、いきなり思想的なことを教え込もうとする人がもし道場に居たら……。
よくよく観察しながら、気を付けた方が良いかも知れませんね。
(個人的な思想・信条を持つことは自由ですが、それと合気道はまったく関係ありませんし、他人への強要などあってはならないことです)
写真の人物は「開祖」植芝盛平翁
では、あの写真の人物は誰なのかというと、「植芝盛平(うえしば もりへい)」という方です。
合気道を作り上げた創始者ということで、「開祖(かいそ)」と呼ばれています。
開祖 植芝盛平翁(合気会のWebサイトより)
そして、合気道では「開祖」の他に「道主」と呼ばれる方が居ます。
よく混同されるんですが、「開祖」は「合気道を創始した人」という意味で植芝盛平翁だけ。
一方の「道主」は、「合気道(合気会)の代表」という意味ですので、その時代ごとに別の方が担っています。
分かりやすく会社に例えると、
開祖=創業者
道主=社長
という感じでしょうか。
なので、創業者が初代社長であるように、開祖である植芝盛平翁が初代道主ということになります。
現在は植芝盛平翁の孫である植芝守央氏が三代目道主と呼ばれています。
(ちなみに英語で「開祖」は「Founder」と訳されますが、会社の創立者と同じですね。「道主」は「Doshu」らしいですけど……)
【歴代道主】
開祖(初代道主):植芝盛平(うえしば もりへい)
二代目道主:植芝吉祥丸(うえしば きっしょうまる)
三代目道主:植芝守央(うえしば もりてる)
そして、三代目の息子である本部道場長の植芝充央(うえしば みつてる)氏が四代目となるのでは? と言われています。
関西の道場が合同で参加する研鑽会にも、今後は三代目は参加せず、道場長のみ参加されるそうですし。
もちろんまだまだ先の話ではありますけどね。
道主は「合気会」という日本最大(つまり世界最大)の合気道団体の代表であり、合気会以外の代表ではありません。
(合気会の他にも「養神館」や「心身統一合氣道会」などの団体が存在します)
しかし、「合気会道主」とは言わず、「合気道道主」という言い方をします。
なぜなんでしょうね。
開祖からの正当な系譜を受け継いでいるから、ということなんでしょうか。
このあたりのニュアンスは僕も何となくしか分かりません。
(オトナの事情……?)
もちろん「開祖」はどの団体であろうが関係なく、「開祖」です。
「開祖」植芝盛平翁の逸話・伝説
「開祖」植芝盛平翁にはたくさんの逸話や伝説的なエピソードがあります。
中でも有名なのが、「鉄砲の弾を避けた」という話。
満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し出国、満州へ渡る。関東軍特務機関斡旋の元、満州の支配者・張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒される。この時の銃撃戦で、敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をする。植芝盛平 - Wikipedia
戦前の話であるが、植芝氏の合気道場に軍隊の射撃の達人達(弾道の検査員)が稽古を見に来ていて植芝氏の蒙古での神技(銃の玉が見えて避けられた)等の話になり、植芝氏に銃の玉が当たらない事が、本当かどうかを試される事になり(事故があっても認める誓約書を書かされたという)そして軍隊の射撃場で試される事になり、射撃の標的の所に、植芝氏が立たされ、軍隊の銃撃手6人に25メートルの所から、植芝氏を狙らわせ、隊長の命令により、一成に銃が発射された、すると、砂埃が舞い上がり、植芝氏は消えて、そして、いつのまにか軍隊の銃撃手は投げ飛ばされていたいう。この実験は2回行なわれたが、2回目も同じ結果だったという伝説のエピソード集
「そんなバカな」と思いますよね?
僕も思いましたが……(^_^;)
まぁ、事実かどうかはさておき、それくらいのことができても不思議ではないということなんでしょうね。
ただ、その後に猟師の佐藤さんという鉄砲の名人と対決したときは、また違った結果に。
名人は名人を知るということですかね。
佐藤さんの指が今まさに引き金を引こうとしたときです。
「まて、あんたの鉄砲は当たる」と、先生が制しました。
「あんたはワシを撃ってやろうなどという気持ちがこれっぽっちもない。最初から当たるつもりで撃とうとしている。
そんな人の鉄砲はよけられない。たいしたものだ」植芝盛平 の超人的な能力。 ( 格闘技 ) - ★昭和とVANと橘浩介 - Yahoo!ブログ
160cm にも満たない小柄な体格だったそうですが、元大相撲力士を投げ飛ばしたというエピソードも。
満州国・新京で開かれた演武会で、力比べを挑んできた元大相撲関脇・天竜(和久田三郎)を投げ倒した。この時、天竜34歳、身長187センチ体重116キロ(身長体重は現役時代)。一方の盛平55歳、身長156センチ体重75キロ(身長体重は20歳時)。
(中略)
技の余りの流麗さに「ヤラセではないのか?」というざわめきが場内から湧き上がる。これを察した盛平は「おそらく、あなた方はこんなに上手く行く筈がない、馴れ合いでやっていると思われるでしょう。あなた方は武道をやっておられるから、我と思わん人は、この爺さんの所へ来て下さい」と呼びかけた。それに応じたのが天竜だった植芝盛平 - Wikipedia
この天竜という元力士が言うには、植芝盛平翁の腕を掴んだ瞬間「鉄棒を掴んだような感じ」だったとのこと。
それで長年の経験から「これはいかん」と瞬間的に思ったそうです。
「鉄棒」という表現はとてもよく分かりますね。
僕も稽古のときによく感じます。
身体は僕よりもかなり小さくて特に身体を鍛えてもいないお爺さんなのに、掴んだ腕は固くて重いんです。
まったくびくともしない。
それなのに動きはとても柔らかい。
何なんでしょうね。
イヤになります(笑)。
実は相当は怪力だったという話もあります。
数人がかりでもびくともしなかった黒松を、たった一人で引っこ抜いたとか。
これもたぶん力任せにやったのではなくて、合気道を応用したんだと思います。
黒松のどこにどうやって力を加えれば、最大限動かすことができるか……。
達人ともなると、相手は人間だけにとどまらないんでしょうね。
(とはいっても、黒松を抜くには力も相当必要だとは思いますが……)
植芝盛平翁はいろいろな言葉も残しています。
中でも「合気道は愛である」という言葉が非常に有名ですが、これを額面通りに受け取ったら違和感がありますよね。
でもおそらくこの言葉の本質は別のところにあって、世間一般で言われている「愛」とは意味合いが違うはずです。
「宇宙」という言葉もよく出てきますし。
合気道の稽古を続けていれば、その言葉の意味もいつか理解できるのかなぁ……。